この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

「清風亭」での運命の出会いから、龍馬の良き理解者となった土佐藩の参政・後藤象二郎

清風亭会談とは
この記事はまとめるのに苦労したが、まずは「清風亭」から説明しよう。
「清風亭」は、長崎で土佐藩が贔屓にしていた料亭で、1867年(慶応3年)に、坂本龍馬が土佐藩参政・後藤象二郎との会談を果たした場所とされている。
土佐藩がセッテイングし、後に「清風亭会談」と呼ばれるこの顔合わせには、2つの大きな意味があった。

ひとつは両者にまつわる「因縁の関係」の解消だ。
当時の坂本龍馬は「亀山社中」という貿易商社を営み、長崎で海上輸送を手掛けていたものの、身分は土佐藩を脱藩した浪士のまま。

いっぽうの後藤象二郎は参政(藩の政務を取り仕切る役職)の立場にあり、船を買い付けるため長崎に来ていた。
普通なら龍馬は脱藩の罪でお縄になるのが筋であり、会談そのものが有り得ない。
ここで少し時代を遡ると、龍馬は脱藩前に幼馴染で遠縁にあたる武市半平太が立ち上げた「土佐勤皇党」という尊王攘夷グループに参加していたのだが、「土佐勤皇党」は、象二郎の叔父で土佐藩の重臣だった吉田東洋を暗殺している。
その復讐に燃えて「土佐勤皇党」を弾圧し、武市半平太を切腹させた張本人が他ならぬ象二郎だった。
ここで知りたいのは、にもかかわらず会談をしなければならなかった理由だ。

長崎で商売をすべく乗り込んできた土佐藩は、どの商人からも龍馬の紹介が必要と断られて途方に暮れていたが、そこへ時勢を見極めた土佐の山内容堂から「薩長と密かに繋がれ」との命が下った。
そこで後藤象二郎は、これまでの私怨を超えて、両藩と強い絆を持つ坂本龍馬に会うことを決意する。
もうひとつは、その英断が土佐藩が幕末の表舞台に登場するきっかけとなったこと。
両者の間には罪人とおかみ以上の深い因縁が存在していたが、象二郎はこの会談で龍馬の大政奉還を含めた先見の明を高く評価し、過去を水に流すとともに意気投合。脱藩の罪を許し、以後共同して政治活動に邁進することを約束する。

そのまま6月まで長崎に滞在した象二郎は、龍馬とともに船で京へ向かうが、この船の中で示したとされるのが、かの有名な「船中八策」だ。
そして同年4月には「亀山社中」を発展的に解消した「海援隊」が成立、10月には両者の思惑通りに大政奉還が実現した。
このことから長崎での「清風亭会談」は、幕末史上の重要な出来事のひとつに挙げられている。
大河ドラマ「龍馬伝」での2人の最初の出会いは「脚色」。

大河ドラマ「龍馬伝」では、青木崇高が後藤象二郎役を好演していたが、龍馬との出会いは史実とは違う脚色だ。
「龍馬伝」では40話で「清風亭会談」が放送されるが、それより遥か前の27話の中で、龍馬が密かに土佐に戻り、後藤象二郎の前で岡田以蔵をかばうために吉田東洋を襲ったのは自分だと告げ、格闘の末に象二郎を投げ飛ばすシーンが描かれている。
確かに同じ土佐出身だけにありそうにも思えるが、調べてみると龍馬と象二郎がともに活動したのは、1867年2月~11月のわずか10ヶ月ほどの期間しかない。
そもそも象二郎は土佐でも名家とされる家の出身で、龍馬のような下級武士とは無縁だったに違いない。
最後に。
「清風亭跡」には冒頭の看板があるだけで、わざわざ訪ねて行くだけの価値は感じないが、近くには崇福寺や丸山もあるので、そのついでに立ち寄ってみるのはいいかもしれない。

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