この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

「中津城」は、軍師・官兵衛の知略が結集した名城
中津城のロケーション
現代の中津の名物は、お城よりやっぱりコレかな(笑)。さすがの歴女・歴男も、美味しいモノには敵わない。
ご承知の通り、大分県中津市は「からあげの聖地」として、日本唐揚協会から認定を受けている。
たしかに町を歩けば、あちこちに唐揚げ専門店があるのだが、その話はグルメのコーナーで、おいおい話すとしよう。
ところで、中津がどこにあるかをご存知だろうか?
福岡との県境に近く、周防灘にポコンとはみ出すかたちの国東半島をはさんで、ちょうど別府と対称になるあたりに位置する中津市は、耶馬溪から流れ出た山国川の河口に広がる。
豊臣秀吉の九州平定により、この地を拝領した黒田勘兵衛(如水)は、その立地に着目し、ここに自らの居城を築くことを決意した。
高さ23メートル・5階5層の天守閣と、2階2層の櫓からなる中津城は、堀に海水を引いており、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられている。
中津城の見どころ
正確には黒田官兵衛が築城し、細川忠興が完成させたとされる中津城の見どころは、一般的にはこの断層のようになった石垣と云われている。勘兵衛が築いた石垣はロゴのある右側だ。
左の石垣に見られるように、この時代はまだ自然石を使う「野面積み」が当り前だったにもかかわらず、驚いたことに官兵衛は、四角に加工された石を利用して石垣を築いている。
これらの石は、もともと7世紀の古代遺跡とされる「唐原(とうばる)山城」にあったものを転用しているそうだが、なぜその時代に石が加工できたかは未だに不明のまま。
解明できているのは、唐原山城が石垣で区画された神籠石式山城(こうごいししきやましろ)のひとつで、記紀にも記載がなく、遺構でしかその存在を確認できない謎の山城だということ。
さすがの官兵衛も、その歴史的価値には気づかず、築城の効率を求めて古代の石垣を利用したのだろう。
それよりも、筆者が見てほしいのは、この景色。
官兵衛が中津城をわざわざ河口に築いた理由は、「情報戦で優位に立つ」という戦略と、そのために「海路」を活用するという戦術にあった。
ゆえに築城と同時に、大坂の情報を船をリレーして伝えさせる仕組みを構築している。
そのおかげで、3日後には城内で上方の様子を掌握していたというから驚きだ。
黒田官兵衛という男の才能は、戦略に戦術がピタッと合致している点に集約される。
例えば、籠城してなかなか敵が落ちないと見るや、近くの村を襲わせ、村民を生かしたまま城内へ匿わせるようにしむける。そうすると城内の食い扶持が増え、兵糧が早く尽きていくことになるわけだ。
なお中津城の入口付近には、そんな官兵衛のプロフィールを教えてくれる「黒田官兵衛資料館」が今も残されている。
放映されているVTRと、展示パネル、パンフレットのいずれをとっても、官兵衛のどこが優れているかを、単純明快に表現できているのが素晴らしい。
しかも入場は無料。大河ドラマ「軍師官兵衛」を見ていた人には、絶賛お勧めのスポットだと思う。
江戸時代の中津城
さて、ここからは「After黒田家」の話。
中津城の築城から約10年後に、関ヶ原の合戦が勃発する。
黒田家は息子の長政が東軍について活躍し、現在の福岡に加増移封されたため、代わって細川忠興が入城する。そう、あの明智光秀の娘・細川ガラシャの旦那様だ。
しかしその後、細川家は熊本城に転封され、小笠原家をはさんで、中津城主には徳川宗家と親戚関係にあたる、奥平家がおさまることになった。
奥平の名が知れ渡るきっかけとなったのは、織田・徳川連合軍が、武田軍を壊滅に追いやった「長篠の戦い」だ。
この激戦で、信長から最高武勲と讃えられたのが奥平家二代目の貞昌で、この時に「信」の一字を与えられ、以降、名を「信昌」と改名している。
その後、信昌は家康の長女・亀姫を妻に迎え、徳川幕府創設に貢献。奥平家は譜代の名門の地位を確固たるものにした。
そのため、城内には奥平家ゆかりの品々が数多く展示されている。
写真は、家康から直々に拝領した、奥平家の家宝「白鳥鞘の鑓(やり)」。
穂先は源氏の弓の名手で頼朝の叔父にあたる、源為朝が使用した鏃(やじり)と伝えられている。
もともとは徳川家の家宝だったが、家康の曾孫にあたる当時六歳の奥平忠昌が、駿府で床に伏せた家康に初めて謁見した際に、この槍を所望し拝領したという。
分かるよ、その気持。誰でも孫は可愛いものだ(笑)。