車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、京都の伏見と天下人・豊臣秀吉の関わりを詳しく紹介しています。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
~ここから本編が始まります。~
その昔、伏見は豊臣の城下町だった。
人によって違うと思うが、伏見と聞いて連想するものは
伏見稲荷大社・日本酒・坂本龍馬・水郷…
残念だが、豊臣秀吉と答える観光客はそう多くはないと思う。
だが、伏見城の築城にあわせて港を開き、伏見の海運を飛躍的に高めたのは、紛れもなく天下人の秀吉だ。
その絶大なる富と権力が「人・モノ・金」をこの町に呼び込み、伏見は人口6万人を誇る一大都市へと発展する。
ちなみに伏見で酒が作られるようになった理由は、水が良かったことよりもむしろ、「飲む人が増えたこと」の方が大きいようだ。
天下人の秀吉が、聚楽第があった京のど真ん中から、南の外れの「リゾート地」みたいな伏見に来るとなれば、当然山ほどいる家臣団もついてくる。気の荒い武士の飲み物といえば、酒と相場は決まってる!
ここで書くとあまりにも話が長くなるので、秀吉が「なぜ伏見に築城したか」は以下の記事に詳しくまとめておいた。
なので、ここでは「伏見界隈に残る、秀吉ゆかりの見どころ」を紹介しよう。
秀吉最大の功績は、付近の地形を永遠に変えてしまうほどの大規模な治水工事をやらかしたことにある。
ただその話をする前に、秀吉が登場するより700年以上も前に、伏見の水運に目をつけていた人物がいたことにも触れておこう。
それは平安京遷都の前に、長岡京を作りかけた桓武天皇だ。
京都の長岡は、伏見からすぐそこのところにある。
当時の平城京には水路がなく、物流を陸路に頼っていたため、効率的な物資の運搬が行えなかった。加えて下水問題も抱えており、町は不衛生な状態に置かれていたという。
長岡京の近くには3つの大きな川が流れ、水運と下水問題を同時に解決できる可能性を秘めていた。
しかし長岡京は、諸般の事情により、わずか10年で幕を閉じる。ここでは詳しい話を割愛するが、古文書には桓武天皇の「与等津」(現在の淀)行幸の記録があり、「津」と称したことから水運と強い結びつきがあったことが伺える。
現在その付近は淀川河川公園になっていて、春には近代の治水で生まれた「背割堤」に、ご覧の桜のトンネルが「開通」する。これがもし平安時代にあったなら、清少納言はもっとすごい和歌を詠んでいたに違いない(笑)。
平安時代後期以降になると、岩清水八幡宮への参拝や奈良・大坂に通じる重要な水陸交通の中継地として、淀は一層の発展を遂げる。
そして今度は、あの院政を確立した白河院がその地に着目する。
ここまででも歴史ファンには十分面白い話かと思うのだが、この先にいよいよ真打ちの豊臣秀吉が、思わぬかたちで登場する。
地図を見ればわかるが、淀は天王山の麓にある。
実は「本能寺の変」の直後に「中国大返し」で大阪に駆け戻った秀吉が、光秀を打ち破った「山崎の合戦」の舞台は、淀の河原だった。
つまり秀吉は、伏見築城前からこのあたりの事情をよく心得ていたことになる。
その後、淀に城を築いたのは誰もがよく知る話。
ここなら労せずとも、愛しの茶々にすぐ会いに行ける(笑)。
さて。秀吉が伏見の水運開発に本腰を入れるのはそれからだ。
当時の伏見には巨大な「巨椋池(おぐらいけ)」が存在し、そこに流入する宇治川が上流の琵琶湖と通じ、巨椋池から下流は淀川が大坂、そして瀬戸内海へと通じていた。
そこで秀吉は「巨椋池」内の島々を結んで「槙島堤」と呼ばれる堤防を築き、「宇治川」を「巨椋池」から分離して、伏見の町に引き寄せる。
これにより、琵琶湖からやってきた船は自動的に伏見の城下に導かれ、京都へ運び込まれる物資は、伏見場内で荷下ろしせざるを得なくなった。つまり伏見に居ながらにして、北からの水運が握れるようにしたわけだ。
さらに続けて「宇治川」と「濠川」を結ぶ場所に「伏見港」を整備し、より町の奥深くまで物資が運べる体制を築き上げた。
さすがに今は荷物を積んだ舟を見ることはないが、代わりに観光客が乗る十石舟と三十石船が行き来している。特に桜の季節の伏見水郷は美しい。
最後は、秀吉一世一代の花宴の舞台となった「醍醐寺」を紹介しよう。ここもまた、秀吉なくしては語れない場所のひとつだろう。
伏見・桃山・宇治・醍醐…
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