車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、丹後半島の天橋立近くにある「元伊勢籠神社」に関する興味深いお話です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
元伊勢籠神社の奥宮は、伊勢神宮の外宮に祀られている「豊受大神」のふるさと
元伊勢 籠神社(もといせこのじんじゃ) DATA
元伊勢籠神社
〒629-2242
京都府宮津市字大垣430
☎0772-27-0006
開門時間:午前7時30分~午後4時30分
「元伊勢 籠神社」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.01.24
2013.02.03
2014.09.27
2023.11.04
※「元伊勢籠神社」での現地調査は2023年11月が最新です。
元伊勢籠神社
「元伊勢籠神社」の意外な歴史
「元伊勢」という名前がつく以上、この大きな神社には日本でもっとも格式が高い「伊勢神宮」と、何らかの深いかかわりがあるのだろう…
さすがにそのことには誰でも気がつくと思うが(笑)、当サイトも定石通り、まずは「籠神社」が元伊勢と呼ばれるようになった謂れから、簡単に説明していこう。
まだ奈良の地に「ヤマト朝廷」が誕生する以前の日本では、
「天照大神(あまてらすおおかみ)」は、代々天皇の皇居に鎮座していたが、第10代「崇神(すじん)天皇」の時代に、都に疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を収めようとした「崇神天皇」は、神託により「天照大神」と御殿をともにしていることが問題と受け止め、「天照大神」を皇居の外の、どこかふさわしい場所にお祀りすることを決意する。
そこで皇女の「豊鍬入姫命(とよすきいりひめりみこと)」に託し、大和の「笠縫邑(かさぬいむら)」にいったん遷宮した。
現在も奈良県桜井市に残る写真の「檜原神社」は、当時の「笠縫邑」の地と伝えられている。
その後「崇神天皇」の跡を継いだ「垂仁天皇」から、「天照大神」を祀るのに最適な場所を探すよう命じられた倭姫命(やまとひめのみこと)は、笠縫邑を出て、この丹後の地に腰を落ちつかせた。
しかし、その後再び理想の鎮座地を求めて現在の近畿・東海地域をさまよい、ようやく伊勢の五十鈴川のほとりに宮を建てたのが、伊勢神宮の始まりだ。
ただし、これはあくまでも神話を元にした伝承で、すべてが「事実」であるとは限らない。
そもそも…
「ヤマト朝廷を打ち立てた天皇家が、その氏神様を祀る大事な宮を、なぜ本拠地の奈良に建立しなかったのか?」ということからして、「伊勢神宮」と「天照大神」には矛盾や疑問が数多く指摘されている。
ゆえに、「古事記」の神話を真に受ける意味は、それほどないと思うのだが、
この神社に立てられた「謂れ」には、実に興味深い記述がある。
神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し豊受大神と共にに四年間ご一緒にお祀り致しました。
その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當舎は元伊勢と呼ばれております。
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠神社と改め、元伊勢の社、また丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました。
足を運ぶべきは、奥宮にあたる「眞名井神社」
この説明板から3つの重要なことが伺える。
ひとつは、「籠神社」には「眞名井原」という「奥宮」があり、そこに「豊受大神」が昔から祀られていたこと。
2つめは、そこに「天照大神」が後からやってきて、「豊受大神」と4年間いっしょに祀られていたこと。
そして最後は、両祭神が「伊勢神宮」に遷られた後に、主祭神を「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」とし、「籠神社」に名前を改めたこと。
ここでもっとも興味深いのは、「豊受大神」の存在だろう。
ご存知の方も多いと思うが、「豊受大神」は伊勢神宮の「外宮」に祀られている、「天照大神」の食事を賄う神様のこと。
神話では「天照大神」が「伊勢神宮」に遷座して約500年後に、「豊受大神」を伊勢に呼び寄せる。
だが”旧知の仲”とはいえ、”仲良しだったから”にしては500年は長すぎるし、ご飯がおいしくなかったからと云うなら、さすがにおっとりしすぎかと(笑)。
そうなると「なぜ、わざわざ伊勢に呼んだのか?」が気になってくる。
その驚くべき真相は以下の記事で詳しく紹介しているので、ここでは割愛するが、少なくても「天照大神」のお告げではないことは明らかで、日本の古代史や伊勢神宮に興味がある人には、きっと喜んでもらえると思う。
次に引っかかるのは、「天照大神」と「豊受大神」が「伊勢神宮」に遷座した後、新たな神を祀る新宮を建てて、社名も「籠神社」に改めていること。
この「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」とは、いったいどこから出てきた、どんな神様なんだ?
「元伊勢籠神社」の祭神から、透けて見える古代の丹後
「彦火明命」については、ネット上にも2つの紹介が入り混じっているが、「古事記」に記された「天照大神」の孫という話は、十中八九、大和朝廷の”でっちあげ”で真実ではないだろう。
しかし、高千穂に「天孫降臨」する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より先に、丹後の地に降臨(上陸)したというのは、あながちウソとはいい切れない。
というのは、代々「籠神社」の宮司を務めている海部(あまべ)家には、「海部氏系図」と呼ばれる平安時代初期の書写があり、現存する日本最古の系図として国宝に指定されている。
それによると今の宮司は、「彦火明命」から数えて83代目の子孫にあたるという。
実は「元伊勢籠神社」の境内出口に、亀に乗った「倭宿祢命(やまとのすくねのみこと)」の銅像がある。
「倭宿祢命」は海部家4代目の祖先で、「古事記・日本書紀(記・紀)」に、「神武の東遷」の際に明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、「神武天皇」を先導して浪速・河内・大和へと進み、幾多の献策によって大和建国第一の功労者と認められ、「神武天皇」から「倭宿禰」の称号を賜ったと紹介されている。
初代天皇とされる「神武天皇」が、実在したかどうかは考古学・歴史学では未だ実証されていない。
しかしこの話は、天皇家との海部氏の因縁を物語っている。
丹後半島各地に残る古墳や遺跡から見ても、古代のこの地には、天皇家よりも早く渡来していた「彦火明命」を祖とする海洋部族がいて、古墳時代に両者の間に親交があった可能性は高い。
そのことからすると、「元伊勢籠神社」は、飛鳥時代の終わりに大和朝廷が都合よく創作した”偽りの古代史(古事記)”ではなく、わが国の”史実”を紐解く重要な遺構のひとつといえる。
歴史的観点からすれば、「眞名井神社」のほうが、今残る「籠神社」の立派な神殿よりも、その価値ははるかに高いはずだ。
最後は繰り返しになるが、
この話もまた、伊勢神宮の「外宮」の記事により詳しい内容を記載している。
予想外のオチまで用意しているのでぜひ!(笑)。
「元伊勢 籠神社」のアクセスマップ
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