城南宮 平安時代と幕末の両方に深い関わりを持つ史跡

平清盛
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
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まるで京都の歴史の番人のよう…

城南宮

創建の年代は不詳のようだが、794年の平安京遷都に際し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)・八千矛神(やちほこのかみ)、そして神功皇后(じんぐうこうごう)を祀り、城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。

格式が跳ね上がったのは、平安時代末期。

白河上皇がこの地に壮大な鳥羽離宮を造営して院政を始めると、鳥羽は政治・文化の中心地となり、城南宮は鳥羽離宮の一部として、祭礼が多く執り行なわれるようになった。

城南宮 花の庭

その当時の名残を残しているのが、80種あまりの草木が植栽され、「源氏物語花の庭」の名で親しまれている神苑「楽水苑」だ。

城南宮と源氏物語

源氏物語の主人公・光源氏は、四季の庭を備えた大邸宅「六条院」を造ったが、白河上皇はその「六条院」に触発され、院政の舞台となる城南離宮の造営に取り組んだと云われている。

大池を掘り、築山を造るなどして、大がかりな造園工事が行われた離宮の景色は、今もこの庭でその片鱗を見せてくれている。

楽水苑

いっぽうこちらは、その当時の逸話を記した案内板。

城南宮

大河ドラマ「平清盛」を見ていた人は記憶にあると思うが、後に出家して「西行」となる佐藤義清は、この地で清盛と出会い、鳥羽上皇の中宮である待賢門院璋子に恋してしまうなど、放送を懐かしく思い出すエピソードも記されている。

城南宮 熊野詣出立の地

さて。これは鳥羽離宮のページに詳しく記載しているが、上皇様は皆、熊野詣がお好きだった。

白河院は9回の熊野御幸を行っているが、続く鳥羽上皇は21回、後白河上皇に至っては、なんと33回もの御幸を行っているから驚く。

ちなみに熊野詣での際には、城南宮が上皇の方除(ほうよけ)の精進所(しょうじんどころ)にあてられ、旅の安全が祈願された。

伏見 城南宮

以降、現在でも城南宮は、普請・造作・転宅・旅行・交通安全などの方除を願う参詣者で賑わっている。

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時代は進み、城南宮は「応仁の乱」などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興される。

伏見 寺田屋

伏見界隈がにわかに騒がしくなるのは、江戸幕府が衰退の気配を見せ、尊皇攘夷の機運が急速な高まりを見せる幕末だ。

1862年に薩摩藩の寺田屋事件が勃発すると、翌1863年(文久3年)には、孝明天皇の攘夷祈願の行幸が城南宮で行われる。

以降、薩長同盟の締結を経て、徳川慶喜による大政奉還が行われるのは、それからわずか4年後の1867年だ。

鳥羽・伏見の戦い

そして翌1868年(慶応4年)、ついに明治新政府軍と徳川旧幕府軍の雌雄を決する戦いが、この城南宮のすぐ近くから始まる。

その後、政治の中心は京都から東京へと移され、それが今日まで続いているわけだが、時代の流れで見ると、城南宮は京都の始まり「平安京遷都」と、政権交代の「院政」、そして終わりを告げる「明治維新」の3つの局面を、間近で体験してきた、京都の歴史の証人と呼べそうだ。

なお、城南宮には広い無料駐車場がある。トイレもあるが、残念ながら夜間は閉鎖されるため車中泊には使えない。

城南宮オフィシャルサイト

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