この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。

駿府城は徳川家康と因縁の深いお城
駿府城公園【目次】
「駿府城」の歴史は、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏が築いた「今川館」まで遡る。
当時の駿府は、卓越した軍事力と外交力で、駿河・遠江(とおとうみ)・三河の領国経営に成功し、「海道一の弓取り」と呼ばれた「今川義元」の下で全盛期を迎えていた。
幼い徳川家康が、「人質」として今川家に身を寄せていたのはこの時代だ。

出典:NHK「おんな城主直虎」
近年放送された大河ドラマ「麒麟がくる」と「おんな城主直虎」に登場していたことで、記憶に新しい人も多いと思うが、「今川義元」は武将であるにもかかわらず、お歯黒で蹴鞠に講じる公家かぶれのイメージが強い。
だが、それには彎曲された理由がある。
安定した領土経営に加え、公家出身の母親「寿桂尼(じゅけいに)」を持つことで、京都とゆかりあった義元のもとには、「応仁の乱」で荒れる京都から、多くの公家が難を逃れて集まってきた。
その結果、都から遠く離れた駿河の地に、華やかな今川文化が花開く。

出典:NHK「おんな城主直虎」
「寿桂尼」も大河ドラマでは多くの女優が演じてきたが、強く印象に残っているのは「おんな城主直虎」の浅丘ルリ子。
気品と威厳をまとい、他の俳優を圧倒するほどの存在感を発していた。
さて。「通説」によると、勢いに乗った義元は1560年に上洛を目指すが、その途中にある「桶狭間」で織田信長の奇襲を受け、不覚にも討ち取られてしまう。
「通説」と書いたのは、義元が西進した理由は、(1)上洛説(2)三河支配安定化説(3)尾張制圧説などがあり、近年では織田氏との長年にわたる抗争に決着をつけるために尾張に出陣したという(3)説が有力視されている。
今川家ではその後嫡男の氏真が後を継ぐものの、大黒柱を失った駿府は1568年に武田軍の侵攻を受けて陥落。
今川館は焼け落ち、どこにあったのかすら分からなくなるほど荒廃した。
念願の海に近い駿府を首尾よく手に入れた武田氏だったが、1575年の「長篠の合戦」で、これまで無敵を誇ってきた騎馬隊が、大量の鉄砲で迎え撃つ織田・徳川連合軍に撃破されて以降、急速に力を失い、7年後の1582年に滅亡する。
そして駿河の武田領は、隣国の三河を支配する徳川家康のものとなった。
家康は懐かしい今川館の跡地に、近世城郭の「駿府城」を築城する。
しかし1590年、今度は豊臣秀吉による「小田原征伐」が行われ、その煽りを受けるかたちで家康は駿府から関東に移封され、駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城することになる。
それから10年後の「関ヶ原の合戦」に勝利し、江戸幕府を開いた家康は、将軍職を嫡男の秀忠に譲ると、江戸城から大御所として駿府に凱旋する。
城下には「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、駿府は上方と江戸に並ぶ大都市へと発展した。
家康の没後は、秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となるが、1631年に乱心し、兄の徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
それ以降、駿府は公儀御料(江戸幕府直轄領)となり明治維新を迎えた。
「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に破れ、江戸を追われた徳川家は、70万石で駿府に封印されるが、1869年の「版籍奉還」で駿府城は国の所有となり、大手門をはじめとする建物は売却及び取り壊しとなった。
1873年の「廃城令」では、軍用地として残す存城処分となるが、建物や城門などの取り壊しはさらに進む。
1891年に城跡は静岡市に払い下げられたが、今度は歩兵第34連隊の誘致にともない、天守台が取り壊され、本丸堀が埋められた。
それにしても「駿府城」ほど、日本の主だった戦に翻弄された城はあるまい。
その意味からすると、建造物としての価値は薄いが、歴史では日本100名城に名を連ねる値打ちは十分にあると思う。
紆余曲折の運命を辿った駿府城の城跡は、戦後の1949年に再び静岡市に払い下げられ、現在は本丸と二の丸の城跡が、都市公園「駿府城公園」として整備されている。
駿府城の見どころ
「駿府城公園」は駿府城の城郭のうち、中堀の内側にあった本丸と二の丸を整備して作られた歴史公園で、東には巽櫓(たつみやぐら)と東御門、南西角にも坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元されており、中は有料の資料館になっている。
公園内の見どころは「巽櫓」
1989 年の復元以来、駿府城公園のランドマーク的存在となった巽櫓は、かつての二の丸の南東に位置し、二層三階のL字型構造になっている。
中は「大御所時代の駿府城」をテーマにした有料(200 円)の展示室で、かつて存在した天守の模型や、江戸時代の城下の街並みを再現したジオラマなどの興味深い展示が続く。
ただ、これだけの歴史を持つ城なのに、博物館を兼ねたこの「巽櫓」に、重要文化財のひとつも展示されていないというのは、いささか寂しいものがある。
駿府城公園 オフィシャルサイト
一番の見どころは、駿府城のスケールが分かる静岡県庁別館21 階「富士山展望ロビー」
駿府城の三の丸があった静岡市葵区のお堀端に建つ「静岡県庁別館」は、21 階が無料の展望ロビーとして一般開放されている。
展望ロビーから見える、巽櫓と東御門。
こちらは坤櫓側。ブルーシートのかかっている場所が発掘調査中の天守台だが、この日はあいにくの雨模様で富士山は見えず。
実は、晴れれば富士山はこんなに近い。
そう思うと、ぜひ天守を再建していただき、家康と同じようにそこから富士山を眺めてみたいと思うのは筆者だけではないだろう。
静岡県庁別館21 階「富士山展望ロビー」
☎054-221-2185( 静岡県経営管理部)
平日8 時30 分~ 18 時、 土・日・祝は10 時~・第3 土曜日とその翌日の日曜日は定休
青葉駐車場(157 台)無料、ただし休日は利用不可。なお車高155 センチ以上の車両は入庫不可って、今時ほとんどアウトなのでは(笑)。
駿府城にまつわるエピソード
それにしても、徳川家康と駿府の因縁は面白い。
家康は19 歳までの12 年間を今川家の人質として駿府で過ごしているが、義元は幼い家康の聡明さを見抜き、自らの右腕として内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた「太原雪斎」に教育係を命じていた。
写真は「巽櫓」の中に再現されている「竹千代手習いの間」。ここで幼い家康は多くの知識を身につけていった。
義元は将来的に家康が、故郷の三河を任せられる武将に育つことを望んでいたとも云われている。
駿府城の駐車場事情
駿府城公園には専用の駐車場がないため、車高のあるクルマはコインパーキングを利用しなければならないが、公園の近くには立体駐車場が多く、キャンピングカーやハイルーフ車が入庫できる平面駐車場はなかなか空きが見つからない。
そのため事前に幾つか候補を探しておくほうがいい。ここでは筆者が利用した平面駐車場を紹介しておこう。
公園まで徒歩約5 分のジーエスパーク(31 台)
8 時-22 時 300 円/30 分
※日中の最大料金設定なし
駿府城に最寄りの車中泊スポット
最寄りの車中泊スポットは、「駿府城」から約11キロ・25分のところにある新東名高速道路の「静岡サービスエリア」の「ぷらっとパーク」だ。
「ぷらっとパーク」は一般道からアクセスして、サービスエリアの施設が利用できる道の駅のような存在で、ここに行けばコインシャワーが使える。
また約18キロ・40分ほど離れるが、三保松原に近い「清水三保海浜公園」にも、きれいなトイレのある無料の駐車場がある。
なお、駿府城にもっとも近い車中泊スポットは、10キロほどのところにある「道の駅 宇津ノ谷峠」だが、車中泊環境は劣悪で、利用は休憩だけに留めておくほうがいい。