大坂在住で歴史に精通する、車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、あまり知られていない話を含めた、世界遺産「二条城」の魅力を紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
二条城は、江戸幕府の「始まり」と「終わり」の舞台
二条城 DATA
二条城
〒604-8301
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
☎075-841-0096
開城時間:午前8時45分~午後4時(閉城 午後5時)
入城料/大人800円
入城料+二の丸御殿観覧料/1300円(こちらがお勧め!)
休城日
年末 12月29日~31日
二の丸御殿観覧休止日
毎年1月・7月・8月・12月の毎週火曜日、12月26日~28日,1月1日~3日
二条城の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.11.15
2011.01.18
2017.09.30
※「二条城」での現地調査は2017年9月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年5月に更新しています。
二条城 目次
二条城が、ユネスコの世界文化遺産・「古都京都の文化財」に登録されていることは数多のサイトに書かれているが、あなたはその登録理由をご存知だろうか?
ここを端折って行くと、いい大人でも「でかっ!」「やばっ!」「すげぇ~」以外の言葉を知らない世代と同じになる(笑)。
そうはなりたくない人に向けて、登録理由を簡単にまとめたのがこちら。
1.二の丸御殿や唐門など、絢爛豪華な桃山文化の遺構が数多く残っていること。
2.徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見守ってきた、貴重な歴史遺産であること。
ただ世界遺産になる前から、なぜか二条城は修学旅行生の姿が多い観光地だった。
思うにそれは、
「二条城がどんな歴史と文化的価値を持つところか」ではなく、京都でいちばん太い堀川通り沿いにあって、観光バスが停められる広い駐車場を有しているという、物理的な事情に起因しているのかもしれない。
ゆえに、うちの家内も子どもたちも、二条城といえば「くせ者の侵入を知らせる鶯(うぐいす)張りの廊下」のことくらいしか覚えていない(笑)。
ちなみに「鶯張りの廊下」は、御殿への侵入者を音で知らせるために設けたというのが「定説」のようだが、実は老朽化によるものらしい。
二条城のガイドさんから直接聞いた話なので、信憑性は高いのだろう。
最大の見どころは、「大政奉還」の舞台となった「二の丸御殿」
こちらが、二条城の国宝「二の丸御殿」。
6棟で構成され、部屋数33、トータルすると約800畳という広大な空間を持つこの建物は、江戸初期に完成した「武家書院造り」の代表例で、江戸城・大坂城・名古屋城の御殿が失われた現代の城郭に残る唯一の御殿群として、国宝指定されている。
内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と、多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、まさに将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な佇まいだ。
もちろん御殿の中は撮影禁止なので、絵や彫刻に興味のある人には、こちらの公式サイトでご覧いただくしかない。
それだとつまらないので、写真が撮れる「二の丸御殿」のちょっとマニアックな見どころを紹介しておこう。
この大きな彫刻は、「二の丸御殿」見学の際の入口となる車寄に掲げられている。
彫られているのは鸞鳥(らんちょう)で、鳳凰(ほうおう)のヒナ、あるいは鳳凰が歳を経ると鸞になるとも云われ、いずれにしても君主が折り目正しいときや、平和な時代にしか現れないとされる。
つまりこの彫刻は、徳川の時代が平和であり、将軍が名君であることを示唆しているそうだ。
「日光東照宮」もそうだが、徳川家は暗示を込めた彫刻が得意なので、その意味を調べてみるのも楽しみ方のひとつだと思う。
大政奉還

出典:二条城
さて。
1867年(慶応3年)の10月14日に、その「二の丸御殿」の大広間に諸藩の重臣を集め、15代征夷大将軍・徳川慶喜が発表したのが、世に云う「大政奉還」だ。
歴史ファンには、本物の徳川慶喜はもちろん、西郷隆盛・木戸孝允(桂小五郎)・後藤象二郎等々の、歴史に名を残す藩政が一同に居合わせ、その声を聞いていたというのは、何とも感慨深いものがある。
大政奉還は、慶喜が打った「徳川家存続のための奇策」
「大政奉還」は歴史的な出来事だが、その背景には、同盟を結び倒幕運動を進める薩摩藩と長州藩らの影があった。
実は10月14日の直前に、薩摩藩の大久保利通と公家の岩倉具視らの画策で、朝廷から幕府討幕の密勅が出されようとしていた。
しかしそれを知った徳川慶喜は、その前に政権を自ら返上することで「討幕の理由」そのものを消滅させる奇策に出る。
近年では、それが「大政奉還」の本当の理由とされている。
慶喜は24日に将軍職の辞職を申し出るが、それは朝廷に政権を渡しても政治を動かすだけの力はないと見切り、いずれ徳川家が政権の実権を握り返せると見通してのことだった。
しかし、結末は慶喜の思惑とは別の展開へと流れ、伏見の鳥羽で新政府軍と徳川軍はついに激突。
世の中はやはり過去と同じく、「血で塗りかえる政権交代」の道へと突き進んでいくことになる。
ちなみに
江戸幕府と二条城の因縁は「大政奉還」だけではない。
二条城は、徳川家康が慶長8年(1603年)に京の宿館として建設した平城で、家康の征夷大将軍宣下に伴う賀儀もこの城で行われている。
つまり、二条城は「江戸幕府の始まりと終わりの舞台」でもあるわけだが、それが江戸ではなく京都というのも、どこか因縁めいていて面白い。
二条城アラカルト
さて。
細かいことを書き出すとキリがないので、二条城の「ツボ」を箇条書きにしてみた。いささか早足ではあるが、これで興味を感じていただければそれでいい。
何事も「入口」が肝心だ(笑)。
●現在の二条城が建っている場所は、平安京の大内裏(宮城)があった位置。
●造営したのは家康だが、完成させたのは三代将軍家光。
●家康が建てた本丸が、現在の二の丸御殿。建物とそこに描かれている障壁画及び調度品の多くは国宝。
●そこで行われた家康と豊臣秀頼の会見が、豊臣家滅亡の引き金となった。
●ちなみに家光が増築した、本丸御殿と天守閣は度重なる火災で焼失し、現在は残っていない。
ここには、かつて伏見城から移された五重六階の天守閣があったが、1750年(寛延3年)に落雷により焼失。
その後は再建されることなく石垣だけが残され、現在の本丸御殿と本丸庭園を見渡すことができる。
天守閣跡から見た二条城の景観。
ここから見ると、城というよりは寺院や館に近いイメージだ。
二条城は二代将軍秀忠の時代になって政権が安定すると、「城」としてよりも天皇家との親睦を図る「迎賓館」として使われるようになり、三代将軍家光の時に大きく造営されている。
なお、家光以降幕末までの230年間に、二条城を訪れた徳川の将軍はいない。
●京都御苑にあった旧桂宮邸を移築し、本丸御殿としたのは明治になってからで、「元離宮二条城」という名称で一般公開されたのは昭和15年。
※本丸御殿は耐震性の問題から、現在は中の公開を休止している。
マイカーアクセス&駐車場
第1駐車場(二条城東側)
8:15~18:00
通常:乗用車 120台
10月のみ54台
乗用車 2時間まで1,200円 以降1時間ごと 300円
第3駐車場(二条城南側)
8:15~18:00
乗用車 20台
2時間まで 800円 以降1時間ごと 200円
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