車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、日本人の大人の伊勢神宮との向き合い方についての記述です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
伊勢神宮には、日本人なら知っておくべき秘密がある。
【プロローグ】
日本人にとって「伊勢神宮」は「日の丸」で、「天照大神」は「君が代」のようなもの?
【プロローグ】
日本人にとって「伊勢神宮」は「日の丸」で、「天照大神」は「君が代」のようなもの?
誰でも自宅の近くに、ひとつやふたつは「神社」があり、初詣や七五三といった普段の祝い事は、そこで”名前も思い出せない神様”に、手を合わせて願いを伝えていると思う(笑)。
受験や結婚・出産といった特別な理由がある時は、その御利益があるとされる神社まで出向くことはあっても、普通は遠く離れた神社まで、わざわざ参拝に行くことは稀だろう。
にもかかわらず、伊勢神宮には毎年600万人とも云われる人々が参拝に訪れる。
Why?
「旅行よ、旅行」で片付ける人もいるだろうが、日本には温泉もあれば絶景もあるというのに、なんでまたシックな神社を選ぶのか…
そう思うと、「伊勢神宮」はちょっと不思議なところだ(笑)。
ねぇねぇ岡村、「伊勢神宮」ってなに?
改めてチコちゃんにそう聞かれると(笑)、我々のようなシニア世代だって答えに窮するわけだが、公式サイトによると
伊勢神宮は正式には「神宮」といいます。
神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神をお祀りする皇大神宮(内宮)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神をお祀りする豊受大神宮(外宮)を始め、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。
と書かれている。
これはカラオケマシーンでは100点かもしれないが、誰も真剣に聞いていない歌と同じで、”ちっとも心に染みてこない”(笑)。
正直なところ、「伊勢神宮」はもとより、その主祭神である「天照大御神」そのものが、”私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める”と云われても、ほとんどの人には”ピンと来ていない”はずだ。
昭和34年生まれの筆者でさえ、「信仰の自由」が当たり前になった時代に育ち、天皇は日本の君主ではなく、”国民の象徴”という、分かったような分からぬような存在と教えられてきた。
さすがに天皇陛下は、テレビで見ていても気苦労が絶えないご様子で、その立場に同情というか、「俺には絶対真似はできんな」という畏敬の念を抱かないではないが、だからといって天皇家の御祖先の神様を、我々国民までが”義務のように”に敬う必要があるのか…
国民ひとりひとりの先祖を遡れば、みんな天皇家に通じるのなら、日本人は全員皇族になってしまうではないか…
みたいなことをいい出したら、キリがないのだが(笑)、公式サイトのみならず、ネットで片っ端から開くサイトは、どれもが似たりよったりで、本質というものが感じられない。
そこで、筆者はこう思うことにした。
「伊勢神宮」は「日の丸」で、「天照大御神」は「君が代」のようなもの。
日本には、未だにどちらもオフィシャルとは認めない人たちがいるようだが、どのスポーツでも、大きな試合の前と勝利を得た時には、理屈抜きに「日の丸」を掲げて「君が代」を合唱する。つまり、両者は2つでワンセットだ。
そしてその時、僕らは「あ~、日本人なんだな」という想いを、意識するしないにかかわらず共有し、「居場所」とか「仲間」を認識する。
「お伊勢参り」もそれでいいと思う。
やることは地元の神社に行く時と大差はないが、普段は神様の名前など気にしてないのに、「伊勢神宮」ではちゃんと「天照大神」様を拝んで帰ろうという気になるわけだ(笑)。
伊勢神宮を理解するキーワードは「ヤマト王権」
日本人が、「伊勢神宮」に一度は足を運んでみようと思ったのは、今に始まったことではない。
もともと伊勢神宮は皇族の神社で、庶民が参拝することのできない神域だった。
庶民に開放されたのは江戸時代で、その中期には「おかげ参り」と呼ばれる数百万人規模の集団参詣が、約60年周期で3度も記録されている。
ただ大半は、「参拝」というよりは”西国観光”が目当てだったのだろう。
まして信仰の自由が定着している現代は、「高野山」のような格式ある仏閣に行くのと気分は変わらず、早い話が「物見遊山」。
下手すると、インバウンドで来ている外人さんのほうが、よく日本のことを勉強をしてきているようにも感じるほどだ(笑)。
しかし、さすがに白髪が目立つ歳頃になって、”やれパワースポットがどうだこうだ”と燥ぐ若者と、行動のレベルが変わらないというのは恥ずかしい(笑)。
もしそう思うのなら…
「伊勢神宮」のおいたちに目を向け、古来からの日本人と「伊勢神宮」の関わりをのぞいて見るといい。
たとえば…
「伊勢神宮」の主祭神は、ご承知の通り天皇家の氏神「天照大神」だが、現在の日本の礎は、いわゆる大和、今で云う奈良盆地を舞台に、3世紀から8世紀の約600年間にわたって築かれてきた。
であれば氏神様は、近くの奈良に祀られているのが普通では?
これだけでも「伊勢神宮」は、どこか不自然で、何か秘密が隠されているような気がしてくる。
そこを解明していけば、本当の古代日本の様子が浮かびあがってくるわけだが、それを紐解く鍵を握っているのは、間違いなく「ヤマト王権」だろう。
つまり「伊勢神宮」を理解するには、古代の奈良に目を向ける必要がある。
記紀に記された「伊勢神宮」創建のあらまし
「伊勢神宮」創建のあらましは、奈良時代に編纂された「古事記」と「日本書紀」のいずれにも記載されており、その大筋は以下の通りだ。
もともと「天照大神」は、代々天皇の皇居に鎮座していたが、第10代崇神天皇の時代に、都に疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を収めようとした崇神天皇は、「天照大神」と御殿をともにしていることが問題と受け止め、「天照大神」を皇居の外の、どこかふさわしい場所にお祀りすることを決意する。
そこで皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめりみこと)に託し、大和の「笠縫邑(かさぬいむら)」にいったん遷宮した。
現在も奈良県桜井市に残る写真の「檜原神社」は、その「笠縫邑」の地と伝えられている。
その後、崇神天皇の跡を継いだ垂仁天皇から、「天照大神」を祀るのに最適な場所を探すよう命じられた倭姫命(やまとひめのみこと)は、笠縫邑を出て丹後の宮津に落ち着くが、4年後に再び旅立ち、近畿・東海の各地を経て、五十鈴川のほとりに宮を建てたのが、伊勢神宮の始まりと云われている。
伝承なので、”それでいい”といえばそれまでだが、もう少し釈然としたい人は、史実とリンクする「歴史学」の世界へ、足を踏み入れていただきたい。
歴史学と考古学から推察する「伊勢神宮」の創建
まず「歴史学」とは、”いつ・どこで・何が起きたのか”を、主に「文献」から考察していく学問で、古文書のみならず、手紙や日記なども含めて、歴史的な事件の実態を解明したり、ある時代の出来事どうしをつなぎ合わせて「歴史」を紐解いていく。
いっぽうの「考古学」は、「遺跡」や「遺物」から歴史を研究する学問だ。
発掘した建物や土器から、その時代の生活や文化を解き明かすため、文字が発明されていない、古代や先史時代の研究に強みを持っている。
この2つの学問から「伊勢神宮」にダイレクトにアプローチできれば、もっと具体的な創建の経緯と時期がわかるはずだが、困ったことに「伊勢神宮」は”日本の聖域”であるため、敷地内の発掘調査は、現在に至るまで許可されていない。
ただ「考古学」と「歴史学」からは、既にいくつか”伝承のあらまし”を補足するというか、是正して軌道修正できる事実が公表されている。
「伊勢神宮」の創建時期
国交省の資料にも「伊勢神宮」の創建時期は、”伝承によると約2000年前”と記されているのだが、それは「崇神天皇」が生きていたとされる時代をもとに、推察されているようだ。
崇神天皇(すじんてんのう)
神武天皇から数えて10代目にあたる崇神天皇は、ウィキペディアによると生年月日は紀元前148年、死亡日は紀元前30年。100歳以上生きていたことになる(笑)。
そのため架空の人物とする説は多いが、いっぽうでは邪馬台国の女王・卑弥呼と同時代の3世紀に実在した可能性が高い、「事実上の最初の天皇」とする説もある。
崇神天皇の王宮跡「巻向遺跡」
その根拠は、奈良県桜井市で見つかった”「ヤマト王権」発祥の地”と考えられている「纒向(まきむく)遺跡」にある。
なお「纒向遺跡」は「邪馬台国・畿内説」の拠り所にもされているが、それはまだ確定には至っていない。
「纒向遺跡」が”ヤマト王権発祥の地”とされる根拠は、ここに最古の前方後円墳とされる「箸墓(はしはか)古墳」と、その前段階の墳墓があること、そして発掘された建物群全体の配置に、明らかな設計意図が見られる点で、当時の都にふさわしい神社と宮殿の原型も見いだせる。
「記紀」によると、崇神天皇は「水垣宮」と呼ばれる王宮で政治を行っていたとされているが、「纒向遺跡」は規模と構造から見て、その跡である可能性が高いという。
しかも驚いたことに、神社の造りは「出雲大社」の本殿、神殿のそれは「伊勢神宮」の正宮に酷似している。
つまりこの時代の「ヤマト王権」は、既に「伊勢神宮」と「出雲大社」を築造できる技術を持っていた。
そこから、古文書に残る「国譲り神話」との関連性が透けてくる。
それらを総合すると、3世紀の「ヤマト王権」に君臨していた崇神天皇は、纒向に「水垣宮」と称される王宮を建て、その中で皇祖の「天照大神」と在地の「倭大国魂神」を、並び祭っていたと考えられる。
話が長くなるので、ここでは「倭大国魂神」の話は割愛するが、この神様が奈良の橿原に実在し、日本最古の神社とされる「大宮(おおみわ)神社」の主祭神だ。
「天照大神」の実像
ということは、最終的に伊勢に遷宮された「天照大神」は、当時の「ヤマト王権」にとって、本当の氏神と呼べる存在ではなかったことになる。
では彼らにとって「天照大神」は、どういう存在だったのだろう?
九州に残る「天孫降臨」の聖地「高千穂」と、「邪馬台国・九州説」の舞台とされる福岡・佐賀の県境に近い「吉野ケ里」にも足を運んできた筆者は、「ヤマト王権」の先祖は、弥生時代に大陸から九州に渡ってきた渡来人だと信じている。
彼らは稲作を普及しながら、奈良の大和まで勢力を伸ばしてきたが、その間に支配してきた他の民族を懐柔するには、君主でさえ抗えない絶対的な権威を誇る、シンボリックな”キャラクター”が必要だった。
神のお告げは、君主の判断よりも尊い。
そう信じていた時代ならではの戦略だが、自然崇拝の対象神である「太陽」を、神格化したキャラクターに置き換えるべく、親しみやすく身近な存在として創り出された女神様が「天照大神」である。
そもそも神様はゲームのキャラクターと同じで、開発者は描かれたストーリーの中で都合よく輝けるよう、様々なアイテムを後付けし、場合によっては進化を遂げ、ストーリーそのものまで膨らませる。
極端に云うと、日本神話はドラゴンクエストと変わらない(笑)。
なおそれに関連する話は、こちらの記事にもっと詳しくまとめている。
話を整理すると
弥生人にとって、太陽は農耕稲作社会における絶対不可欠な存在で、日本に渡来してくる以前から、大陸の民族の心の拠りどころとされていた。
その太陽に新たなる祭神の「天照大神」をリンクできれば、今度は「天照大神」が絶対的な存在にとって代われる。
さらにその「天照大神」の血を引く子孫を、天皇という「ヤマト王権のトップ」に据えることができれば、いつの時代でも天皇が「絶対君主」になるというストーリーが完成する。
だが今は、その時ではなかった。
確かに「天照大神」は、政治上は筆頭に崇める必要のある神様だが、自分たちの本拠地が危機に晒されている現在、先祖代々祀り奉ってきた、馴染みの神様を優先しないと騒ぎは収まらない…
それを回避するため、崇神天皇は「倭大国魂神」を奈良に残し、「天照大神」は「ヤマト王権」の原住民族から怒りを買わない地に遷して、とりあえず難局を乗り切ることにした。
たぶんこれが、「天照大神」が伊勢の地に祀られることになった真相だと思う。
そして、それから約300年後…
当初描いていた、「天照大神」の血を引く子孫を、天皇という「ヤマト王権のトップ」に据えることができれば、いつの時代でも天皇が「絶対君主」になれるというストーリーを、完結へと導く凄腕の天皇が現れる。
「伊勢神宮」の「式年遷宮」に秘められた真実
それが女帝の持統天皇(645~702年)。
持統天皇は「天皇の権力と権威の強化」を図った天武天皇の皇后で、夫の死後に「政策の後継者」として自ら天皇に即位した。
その前に…
「天照大神」を始祖とする今の天皇家のストーリーを、神話にまとめたあげたのは天武天皇と目されている。
壬申の乱で勝利を得て、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)で即位した天武天皇は、一族の勢力を拡大すると同時に周辺の統一を果たすために、いくつもの革新的な企てを行ったが、そのひとつが「古事記」の編纂で、各地の説話伝承を天皇家中心の説話に改竄させ、神話として形作らせた。
ただ、当時はそれが広く浸透していたわけではない。
持統天皇は、天武天皇から「古事記」「日本書紀」の編纂を引き継いでおり、その内容にも深く関与している。
つまり、「記紀」をさらに自由に書き換えることができたのは、彼女を置いて他にはいない。
ちなみに天武天皇は、「古事記」編纂の一環として、必要不可欠な「伊勢神宮」を創建したともいわれている。
というのは、現在の伊勢神宮の西側に位置する吉野は、天武天皇が壬申の乱のときに助けを得て勝利を得た地で、天武天皇にとって、都から離れているものの信頼のおける場所だった。
さて。
「チーム持統」の本当の凄さはここからだ。
持統天皇は、皇太子であった息子の草壁皇子(662~689)が夭逝(ようせい)したため、孫の軽皇子(後の文武天皇、683~707)に、直接天皇の座を継がせようとしていた。
理由は、亡き天武天皇の悲願だった「天皇世襲制の確立」である。
だがそのためには神話の時代まで遡り、「天孫降臨」すなわち、孫への権力譲渡を強烈に正当化する必要があった。
そこで、始祖と同じことを直系の子孫である持統天皇が行うのは”当たり前”という理屈を正当化するため、「天孫降臨」の再現を盛大に行う儀式として、「式年遷宮」という荒業を編み出した。
すなわち持統天皇こそが、実は真の「天孫降臨」のモデルで、そのために「天孫降臨」神話をこの時新たに書き加えた可能性は高い。
「式年遷宮」とは、神社等が周期を定めて社殿を更新し、新たな社殿にご神体を移すことを云うのだが、そうすることで「天孫降臨」の神話もまた蘇る。
「伊勢神宮」では、「天照大神」を祭神とする「内宮」、「豊受大神」を祭る「外宮」ともに、20年ごとに社殿を新しく造営し、祭神を遷座してきた。
いっぽう「出雲大社」では、「大遷宮」と呼ばれる60~70年に一度の儀式が「式年遷宮」に相当するが、2013年は「伊勢神宮」と「出雲大社」の「遷宮」が、偶然重なることで話題を呼んだ。
と同時に、両者の関係性が蒸し返されることになった。
わかりやすく云えば、「出雲大社」が朽ち果てて無くなれば、「天孫降臨」の神話は成立しなくなり、「伊勢神宮」の存在理由までもが消えてしまう…
ゆえに他の神社はともかく、「伊勢神宮」と「出雲大社」だけは、定期的に「式年遷宮」をしないわけにはいかないのだ。
ただ現在は伊勢も出雲も、新しい社殿にご神体や御神座を移すことで、神威が甦ると言い伝えられており、伊勢ではそれを「常若(とこわか)」と呼ぶ。
また祭事における意味とは別に、遷宮を行うことで宮大工の技術を伝承するという、現実的な目的もあると聞く。
「伊勢神宮」では社殿だけでなく、祭祀に関わる衣装から器に至るすべての物を新調するが、背景にはそういう理由もあるのだろう。
さらに、20年ごとの比較的短い周期で遷宮を行うため、実は東西に2つ分の敷地を用意してあり、20年ごとに東・西を遷し替える形で、全く新たな社殿を建立している。
上の写真は、下宮で「次回の式年遷宮」用に整地された前回までの社殿があった場所を意味する「古殿地」だ。
いっぽう、「大遷宮」の呼び名で親しまれてきた「出雲大社」の遷宮は、正確には「随破遷宮」と呼ばれ、社殿の損傷具合に応じて60~70年に一度行われてきた。
ゆえにまずはご神体を御仮殿に遷して、社殿を修造し、再び元の社殿にご鎮座いただく形になる。
現在の「伊勢神宮」は、日本の神事のテーマパーク
長々と説明してきたが、これで「伊勢神宮」の本当の姿が見えてきたと思う。
まとめると、「伊勢神宮」は「ヤマト王権」が日本を恒久的に支配し続けることを目的に作った”魔宮”だ。
祭祀で物事を判断する時代が終わって以降、信仰は”権威”を保持するための”隠れ蓑”にすぎず、引き継がれてきた行事や儀式も、”権威”を守るために行われてきた。
たとえ武力で敗れたとしても、領民の精神面までは屈服させられない。
そのため「天皇家」存続のためにも、「伊勢神宮」だけは、皇族以外は近づくことも許されず、複雑怪奇なしきたりと儀式に覆われた、得体のしれない”神域”でなければならなかった。
もし、ないがしろにしてみろ、
未来永劫”神様のたたり”がお前たち一族に降りかかるってね(笑)。
さて。
平安時代に「摂関政治」が始まって以降、天皇家が実質的な日本の支配力を失ってから、既に1200年以上が経つわけだが、
もし「持統天皇」が「伊勢神宮」のしきたりを構築していなければ、またそれを代々の天皇が継承し続けてこなければ、日本からはとっくに固有の信仰スタイルは消えてなくなっていたと思う。
思えば、頼朝も信長も秀吉も家康も、そしてGHQも、やろうと思えば古代に「ヤマト王権」が出雲で行ったように、天皇家の過去など跡形もなく潰せたはずだし、たぶんその真相にも気がついていただろう。
しかし、彼らはそれをしなかった。もちろん、”たたり”を恐れてではない。
今も昔も、為政者が国を統治する際に必要となるのは”精神的支柱”だが、既にその土台となっている「天皇家」と「天照大神」を破壊し、同じものを再構築するには、膨大なる時間とウソが必要になる(笑)。
天皇は日本の象徴…
そういう表現こそ、太平洋戦争で負けるまで使われなかったが、鎌倉時代以降の天皇は、実質的にはそれに等しいものだった。
途中には「建武の新政」や「明治維新」など、天皇の復権がなされたように見える時期もあるが、それは“傀儡政権”でしかない。
都合のいいように利用できるうえに、政治に影響力を持たない”象徴”を、ないがしろにしても「百害あって一利なし」。
全く持って正しい判断だと思う。
そしてそれは、令和の今も変わらない。
ゆえに「伊勢神宮」は、”日本の神事のテーマパーク”と思って参拝するのがいい。
「日本の古典芸能」に興味がなければ、天皇家の権威を保持するために、今もなお行われている慣習や儀式に必要上に踊らされたり、江戸時代に御師が後付した”縁起担ぎ”に惑わされるのはよそう。
「伊勢神宮」は「日の丸」で、「天照大神」は「君が代」のようなもの。
境内を歩き、「やっぱり日本はいいね!」と思えれば、参拝は大成功だ。
そう、この子達に教えてあげたい(笑)。
伊勢神宮 車中泊参拝ガイド
※記事はすべて外部リンクではなく、オリジナルの書き下ろしです。