歴史に精通する、車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、坂本龍馬が暗殺された京都の「近江屋(坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地)」の見学時に役立つ的確な情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
興味深いのは、近江屋にまつわる「坂本竜馬暗殺の顛末」とロケーション
近江屋跡 DATA
近江屋跡
〒604-8027
京都府京都市中京区河原町通蛸薬師下る塩屋町330
現地電話なし
見学(あるのは石碑と説明板のみ)
24時間可能
無料
近江屋跡の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.07.04
2011.01.28
2014.11.14
2017.09.24
2021.12.13
2023.04.04
※「近江屋跡」での現地調査は2023年3月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年6月に更新しています。
「近江屋跡(坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地)」 目次
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近江屋跡の変遷
この写真を見て、龍馬の暗殺された「近江屋跡」だとわかった人は、けっこう以前にこの地を訪ねている。
2010年の「龍馬伝」放送当時、「近江屋跡」はコンビニだった。
それから3年が過ぎた2014年に訪ねた時には、店は回転寿司屋に変わっており、ちょっと男前な龍馬の肖像画が添えられ、以前よりは見つけやすくなっていた。
さらに3年後の2017年。
店は回転寿司のままだが、看板はカッパ寿司に変わっており、肖像画は見慣れた龍馬の写真に差し替えられていた。
そして2021年。
肖像画は「中岡慎太郎」が加わった真新しいものに変わっており、それは2023年もそれは同じままだった。
もちろん、それが云いたくてこの記事を書いているわけではないのだが(笑)、「近江屋跡」は京都でもっとも賑わいのある河原町通の三条から四条の間に位置しており、筆者もわざわざその確認に「近江屋跡」を訪ねているわけではなく、前を通る機会があった時に、記録程度に写真を撮ってきただけだ。
いずれにしても、ここの地価は驚くほど高いに違いない。
ゆえにわざわざ場所を割いて、金にもならない「龍馬」暗殺のことをこれ以上詳しく伝えるのは、経済上物理的に難しいのはよく分かる。
ということで、代わりに「坂本竜馬」暗殺の顛末をサクッと紹介しよう(笑)。
「坂本龍馬」暗殺の顛末
1867年11月15日(慶応3年)の夜、「坂本龍馬」と「中岡慎太郎」は土佐藩邸の向かいにある醤油商「近江屋」の2階で火鉢を囲んでいた。
この日の「龍馬」は風邪気味で、暖かい軍鶏鍋(しゃもなべ)を食べようと、世話人の「峰吉」に鶏を買いに行かせるが、その間に数人の男が「近江屋」に押し入り、防戦する暇を与えず、「龍馬」の額を一刀で断ち割った。
致命傷を負った「龍馬」は、さらに追い打ちをかけられその場で絶命。
重症を負った「中岡慎太郎」も2日後に息を引き取った。
「龍馬」暗殺の実行犯は、京都見廻組の「佐々木只三郎」「今井信郎」らと云われており、その時に「龍馬」を切った刀が霊山歴史館に展示されている。
また当時の「近江屋」の室内模型も見ることができる。
つまり「霊山歴史館」を見なければ、”肝心なことは何もわからない”(笑)。
ならば「霊山歴史館」を先に見て、「近江屋跡」に行くほうがいいに決まっている。
霊山歴史館と京都霊山護国神社
「霊山歴史館」から「近江屋跡」までは約2キロ。人混みの中を歩くため30分はかかると思うが、逆に見るのと満足感は大違いになるので頑張ろう。
また「霊山歴史館」に隣接する「京都霊山護国神社」の墓地に、「龍馬」と「中岡慎太郎」は静かに眠っているので、あわせて墓前に手を合わせてくるのもいいだろう。
「近江屋」は「土佐藩邸」の目の前にあった!
さて。
「近江屋跡」から見えてくる本当の面白さは、そのロケーションに起因している。
前述したように、実は「龍馬」が暗殺された「近江屋」は、「土佐藩邸」から10メートルも離れていないところにあった。
当時の藩邸は大使館のような存在で、幕府の役人と云えども簡単には踏み込めない「治外法権」の場所である。
そして「龍馬」は大政奉還前に脱藩の罪を赦免されており、「土佐藩邸」に自由に出入りできる身だった。
近くには「海援隊」のメンバーが詰める「酢屋」もあるが、伏見の「寺田屋」で奉行所に踏み込まれ、役人に死傷者を出して以降、「龍馬」は幕府に追われ、大政奉還でさらに敵が増えて、常にその命が狙われていたことを思えば、「土佐藩邸」は誰が見ても居場所としては最適だ。
また薩摩藩の「西郷隆盛」も「龍馬」の身を案じて、土佐藩に遠慮があるなら二本松の薩摩藩邸に来ることまで進言していた。
そうなると歴史学者でなくても、「Why 龍馬 stay 近江屋?」になる(笑)。
龍馬が近江屋を好んだ理由は「行動の自由さ」にあったと云われている。
フィクサー的な立場にあった「龍馬」は、昼夜を問わず時の実力者との会合を重ねており、実は暗殺される直前まで幕府の重鎮にも会っていた。
「門限」のある藩邸は、その意味で「龍馬」にはそぐわなかったようだ。
しかし、安全な土佐藩邸の目の前にある「近江屋」なら、自由に行動が出るうえに、万一襲撃されても「寺田屋」の時と同じように逃げ切れる…
「龍馬」はそんな計算をしていたのかもしれない。
そんなわけで、近江屋跡に行くなら、周辺に残る「坂本龍馬」ゆかりの地にも足を運んでみよう。
「近江屋跡」から「酢屋」「土佐藩邸跡」を辿れば、暗殺される前の「龍馬」の緊張感が少しは分かる。
「坂本龍馬」暗殺の黒幕
「坂本龍馬」暗殺の背後には、黒幕がいると昔から囁かれてきた。
大政奉還によって、徳川幕府を武力討伐するきっかけを奪われた薩摩藩、もしくは「いろは丸事件」で、海援隊に7万両の償金を払わされた紀州藩が首謀という説も、未だに根強い。
「龍馬」の死から150年を経た今でも真相は闇の中だが、ここへ来て京都守護職であった会津藩の「松平容保」が黒幕だったのでは?という声が強まっている。
会津藩は、「西郷隆盛」と「大久保利通」がいる「二本松の薩摩藩邸」への襲撃を画策したが、それを察知したふたりは、先手を打って京を離れた。
その会津藩のやり場のない憤りの矛先にいたのが、薩摩藩と親しい関係にあった「坂本龍馬」だったというのだ。
この先は、もはや「旅の範疇」ではないと思うので深掘りはしない(笑)。
旅行者にとっておもしろいのは、やはり生きていた「龍馬」の足跡だろう。
なお、河原町に面した「近江屋跡」の周辺にはコインパーキングはない。
通りを変えて少し離れれば、何件かは見つかると思うが、以下の記事を参考に京都市内にある「坂本龍馬」ゆかりの地を観光するつもりなら、車中泊に適した「京阪パーキング三条駅前」にクルマを入れ、そこから歩くほうがいいと思う。
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